小さい頃の思い出

こんにちは。7月からToy-enに転属した訓練生です。

大学は工業系に通っていましたが実験レポート等で苦戦してしまい、なかなかうまくいきませんでした。苦手な分野に時間を費やすよりも就職に結びつく訓練を受けたほうが良いと判断して大学を中退し、自分の特性を考えた訓練をしてくださるKaienに入所して現在も訓練を続けております。

私は今、軽度の発達障害ですが、幼少期はとても不安定な状態でした。
私は3歳の時に非定型自閉症及び知的障害と診断され、相手からの呼びかけになかなか反応せず、自分から何かしゃべる事が非常に少ない子供だったと聞きました。小さい頃まで感覚過敏(視覚・聴覚・触覚・味覚)もあり、魚を手掴みした時や花火の光や音で泣き叫びそうになった場面は今でも記憶に残っております。時にパニック状態で母親の髪の毛を引っ張ったりしたこともあって何事にも強い拒絶反応をおこしていました(ごめんよ、母さん・・・)。でもそんな中で、母親が一番になって動いてくれて、水の感覚も苦手だった私をプールへ連れて行ったり、あちこちの療育施設に連れて行ってくれたりして必死に療育をしてくれていました。

学校は、定型発達児(健常児)と自閉症児の混合教育が行われている武蔵野東学園に幼稚園から小学5年の1学期まで通っておりました。小学生では体操教室や発達心理研究所、学童クラブ等に通い、中でも学童クラブが一番印象に残っています。学童ではおやつが毎日出されて月一の誕生会でケーキも出てくるのですが、私の場合は味覚も過敏でおやつの時間がとてもキツく感じていて我慢して食べたこともありました。もちろんその頃は自分が発達障害だという事は知りませんでしたが、周りの人とはどこか違うというのは何となく感じていました。自分だけおやつを食べてない等で変わった行動をして、周りの人に「変なやつだ」と思われて集団から孤立してしまうのが嫌だという気持ちが強かったのです。
また、学童に通っていた人は私以外みんな地元の公立の小学生で、武蔵野東学園は私立でしたので私だけ制服姿で学童に通うことが多く、初めは周りの人と馴染めませんでした。今思うとだいぶハードルが高かったと思いますが、年上と年下の人はだんだん私に声をかけてくれるようになりました。多少からかわれた事もありましたが、木登りや秘密基地を作って遊んだりしてグループの輪の中に入ることは出来ました。感覚過敏も少しずつ克服する事が出来て、現在、感覚過敏はほぼありません。

事情があり、小学5年の2学期で地元の公立の小学校に転校しました。その新しいクラスの中には学童で一緒だった人もいましたが、学童では同い年の人とはあまり馴染めなかったので、いまさら同じクラスに入ってもうまくいくのかどうかでとても不安に感じました。しかし、いざ同じクラスになったらまるで人が変わったように親切で気さくな感じで私に接してくれました。新しいクラスに入ってすぐにクラスメイトから野球に誘ってくれて、「俺、野球下手なんだ・・・」と返しましたが、「あぁ、別に下手でも良いよ」と言ってくれて、”クラスメイトと外で遊ぶ事”が一気に増えました。私の誕生日の時にはバースデーカードを渡してくれた女子もいて、まさかそこまで馴染めるとは思わなかったので驚きと嬉しさでいっぱいでした。

キツい時もありましたが良い思い出も色々出来て、周りの人には本当に恵まれていたと思いますし、何よりそのきっかけを作ってくれた親に一番感謝しております。

本当にありがとう。